相生あおはの書庫

ねこにうもれたい。

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今までの夢って何だっけ

こんにちは。相生あおはです。
先日あんな記事を書いてたら回顧したくなったので、回顧することにします。
「将来の夢はなんだっけ」って言葉は歌詞にもあるくらい有名ですが、「今までの夢って何だっけ」という切り口は新しいんじゃないですかね。

私は幼少期からいろんなことに興味関心を抱くタイプです。すなわち、その時々抱いていた夢を成長する過程でそれだけ諦めていたということです。供養ということで思い出してみることにします。
読み返すと、私の生態がよく分かるなぁと思ったんですが、隠すような内容でもないんで良しとします。

~~もくじ~~

幼稚園時代

天文学者を志していました。何故か教室の本棚にあった天体の本を片手に廊下を走って職員室に行き、幼稚園の先生に説明するのは楽しかったです。思い返せば、お父さんが天体観測が好きな人だから影響を受けたのでしょう。
お遊戯会などで、保護者の前でみんなで順に将来の夢を言うシーンがあったんですよ。みんな「お花屋さん」とか「ケーキ屋さん」とか。そんな中、空気を読むことを知らなかった私は戸惑いも無く「天文学者」と放ちました。先生や保護者達がざわついて、会の進行が一瞬止まったのは苦い思い出です。

さてそんな天文学者になる夢ですが、その道で食べていける自信が無かったため諦めることとなります。でも現在は趣味として、天体望遠鏡を買って木星ガリレオ衛星を見たり土星見たり、皆既月食による天王星食を見たりしてます。

次この瞬間が見れるのは322年後

小学校時代

薬剤師を志していました。私は小児喘息だったので、幼稚園入園前はほぼ毎日入院していた上に、当時でも4種類の薬を飲んでいたためです。今でも覚えています、テオドールとオノン、ムコダインとムコサール。気管支拡張剤と抗アレルギー剤だっけ。たまに服用されたジスロマックとか言うのは悶絶する苦さでトラウマです。
そのうちキプレス錠やフルタイドと変わっていきました。未知の物質を服用すると、実際に体調が良くなるわけです。薬学なんて知らなかった当時の私にとってみれば、正に魔法です。興味を持たないわけありません
当時は学校で、休み時間に理科室から勝手にガラス器具を持ってきて、教室の後ろのランドセル置き場の上にセットして、チョークを酢で溶かして遊んだり、先生方黙認でいろいろやってました。年賀状に書かれた「立派な科学者になってくださいね」の一文は今でも忘れません。その分、科学者になれなかった今重くのしかかってくるわけですが、、、

薬剤師の夢は、それで食べていく自分の姿が想像できたため割と最後(大学受験)まで残ってました。叶えるなら最後のチャンスだろうと思い、滑り止めで受けた東京理科大で薬学部も一応受けました。が、私大の対策モチベが国立モチベに吸われ切っててノー弁。理系学部の最高学府は流石に落ちましたね。

趣味と言えるかどうかは怪しいですが、一応大学で有機化学を学んだ身なので、処方された薬剤の構造式を見て想像を膨らましたり、薬剤の歴史や副作用、作用機序を眺めたりするのが今でも好きです。高校時代は『毒の化学』という本を愛読しており、担任の先生に事件を起こすのではないかといつもいじられていました。そんなこと言うけど毒と薬は一緒ですからね。量の問題なんじゃ。

中学校時代

法律家科学者を志していました。なぜか知りませんが当時はよくいじめられてたもので、奴らに対抗するための武器をどうしようかとか色々考えてました。ただ鈍器とかで殴るのは芸が無いので、幼いころから好きな科学をふんだんに活かした武器の研究開発をしてました。

もちろん結局対人では使ったことはありませんが、危険な実験をしているだけでも法に触れないか確認する必要があります。またいじめに対して法で対抗できるんじゃないかという理由で立ち読みしたことがありましたが、あまりに難解な文章で一旦諦めました。

実験過程では本当にいろいろやりました。部室の天井や壁に弾が当たって刺さったり穴が空いたりするのは日常ですし、自作のコイルが絶縁破壊して緑色の炎が吹いて床が銅メッキされたり、調子に乗ってスポット溶接で遊んだり。大気圧の差をエネルギーにした大砲でアルミ缶を何十本粉砕したか、記憶にもありません。
人が確実に死ねる実験をやっているという自覚があったため、部長だった私が責任をもって部員に危険個所と危険性を徹底的に周知した上で実験してました。私の在籍時にはヒヤリハットすらありませんでしたが、卒業後に、感電して脈拍が一瞬乱れて死にかけた部員がいたという報告を聞いてヒヤヒヤしてます。

今でこそ危険な実験は出来てませんが、実験する上で必要だった電子工作は、今でもやってます。あとは実験が出来るパーツを買えば…当時はいい時代で、秋葉原の個人商店がまだ多かったんです。沢山値引き交渉して、可愛がってもらい、目を見張るくらいの値引きをしてもらってウハウハと装置を作ってました。いまはもうそれらの店は潰れてしまいました。南無…。思い返せば、年上の人と話すのに抵抗無くなったのはこの時の経験でしょうか。話を始めちゃえば相手も人間なんです。
法律家の夢に関しても、社会人になった現在、身を守る術として細々と役に立ってたり立ってなかったりとしてます。

危険な実験をするのに必須スキルである電子工作は、小五の私を秋葉原に連れて行ってくれた祖父の影響です。実家時代にデスクライトのインバータが壊れたので、LEDチップを買ってデスクライトにしてました。それを最近リメイクしたのが、↓のバルス照明です。抵抗制御とかいうエコに煩い昨今では最悪な設計ですが、LEDモジュールを作った中学時代の私にそれ以外の知恵はありませんでした*1

バルス照明

高校時代

生物工学者地震学者教師楽家のいずれかになろうと志していました。中学時代の"科学者"というのが具体的になってる辺り、やはり可能性が収束していっている気配がありますよね。

まず最初は地震学者を志してました。高校生ということで大学を決める時期になります。そのため、その時一番興味関心が強く、将来職にした時に勝算がもっともありそうな地震学者になるために必要なことが学べる大学ということで、東北大学京都大学が択に上がります
当時私は地震学の研究で受賞したことがあったため、食べていけるんじゃないかと思い本気でした。実家は関東であるため、通うとなると下宿が必須になります。親に相談したら快諾。そして高3の夏にオープンキャンパスに行くわけです。先に東北大がある仙台へ。

詳しくはきっと別記事にしますが、ここで感動的な経験をして仙台駅前で「ここにする」と実家に電話をしたわけです。この時、アポもせずにお話をさせていただいてしまったとある教授に「化学も好きというならそっちに行った方が将来明るい」的な助言を受けて、あっさり地震学者の夢を諦めてしまったわけです。ちょろい。でも、自分がなりたかった将来像に、そんなこと言われちゃったら、それはもう飲み込むしかありませんでした。
京大のオープンキャンパスも一応行ったんですが、校門に学生運動の立て看板があるのを見て気が滅入ってしまい、京都観光することも無く実家に帰ったのは懐かしいです。あと死ぬほど暑かったです。実際に大学一年の時の旅行では熱中症で死にかけました。

地震学者の次はと言えば生物工学者でした。私が高3だった2015年、ちょうど大村智博士がノーベル医学・生理学賞を受賞されたんです。氏の研究は確か、静岡だかのゴルフ場で採取した土壌に含まれていた細菌が産生する抗寄生虫抗生物質を用いた治療法の確立だったと記憶してます。
そこで私は、「治療したい病気に必要な薬剤を産生する微生物の遺伝子を合成できれば万能では?」と思ったわけです。若いですね。幼いころから化学は得意だったため、まずは遺伝子の合成が出来るように有機化学を極めるべく、とりあえず理学部化学科を志望したわけです。先述の教授にも化学の道に進むことを勧められたので、迷いはありませんでした。小児喘息の名残が未だにあったせいか、病気に立ち向かう系のことは一貫して興味を持ち続けていたのかもしれません。投薬治療だったから製薬系に興味があったんでしょう。仮に手術を受けまくってたら医者を目指していたでしょう。

ただセンター試験のバンザイシステムでC判定だったため、似たようなことが学べて理科の選択科目が一致してた、バンザイシステムB判定の工学部・化学バイオ工学科に結果的に進むことになります。これは恐らく私の人生で一番大きなターニングポイントだと思います。

教師になりたい夢というのも、尊敬できる化学の先生に影響されて、学校の休み時間を使ってクラスメイトに質問された過去問や演習問題やらいろいろ教えてたのがきっかけでした*2。実際、人に何かを教えるのは楽しかったです
ただ、教師って職は、教え子はどんどん旅立っていくのに教師自身はまた最低学年に戻る無限サイクルみたいで嫌だな~と思ったので、他の夢に比べたらtierは低かったです。なので、滑り止めの早稲田で教育学部をなんとなく受けるに留まりました。生物工学者の夢があまりに強かったので、過去問を初めて開いたのは受験当日の電車内という舐めプのため流石に落ちました。

楽家の夢は昔からあり、詳細は伏せますが実家の環境的にそれを志すのは当然でした。が、音楽大学に行きたいと親に相談すると、「こんな汚い音楽の世界より科学の道に行け」と説得力抜群の苛烈な猛反対を受けたので、あっさり諦めました。実際に音楽大学に行ったピアノコンクール仲間の話を聞くと、あの選択は正しかったと思います。
それでも、好きに偽り通すことはできず、大学時代に電子ピアノを買って弾いたり、作曲したりといい感じに趣味に転化出来てると思います。

教師になりたいという夢も、人に何かを教えるみたいなベクトルで生きてる気はします。講習会やったり誰かに何かを教えたり、大勢の前で喋ったりする場面は、やっぱり楽しいです。ただ長時間喋ってると喉がイガイガするのが悩みです。これも小児喘息の名残なんでしょうか。

大学時代

よく、大学で何かに出会って人生変わると言いますが、私の場合は情報系に出会って今までの人生が壊れました
入学したら晴れて生物工学者の道…かと思いきや、入学モチベーションであった遺伝子の全合成は既に達成されていると授業で知らされます。これは大学3年の時でした。この時の絶望は今でも鮮明に覚えています。
生きる目的を失った私は一瞬路頭に迷うわけですが、その次の過程である薬剤の設計に課題があると教授に言われ、そういう方面の道に進むことになりました。

そちらの研究室に入って実験をするわけですが、詳細は伏せますが想像の50倍はハードでした。小児喘息の名残で食が細く、長期的な体力も弱く、こんな人生じゃなかったと思い悩んでしまい、耐えられずに心身を壊すまでになったんですね。
そこで、ハードな実験は他の出来る人に任せればいいじゃんと思い、その先の薬剤構造最適化の計算研究をやるとそこの研究室の教授に相談したら、二つ返事でOKが返ってきました。うちの研究室で初だったらしいんですが、自らの決めた研究テーマを実行できることになりました

もう、以前の熱が瞬時に戻ってくるわけです。えいやって開発を進めたら上手く行ってしまい、修士1年の10月時点で卒業できるくらいになりました。投稿論文を書くか悩みましたが、最悪それは社会人になっても出来ます。まとまった休日を取れるのは学生時代が最後だと分かってたので、以降は狂ったように旅に出ました。大満喫
大学時代の学部は超絶暇だったので、部長をやってたサークルで暇つぶしとして始めたサーバ開発やプログラム開発が独学で出来るようになってしまい、それでまさか修士を卒業しちゃったんですね。情報系に出会って人生が狂いました

気づいたら生物工学の道から外れてしまったわけですが、手段は違えど生物工学の目標に向かって研究出来たということで、大学在籍時はあまり悔いはありませんでした。

社会人時代

そして今に至ります。専門の畑は?と聞かれたら、一応研究室の分野的に生物工学と答えるしかありません。それでもシステムエンジニアとして、情報系出身の同期に負けることなく、むしろ研修で彼らに教える立場になるくらい、私一人だけ炎上してるプロジェクトにアサインされて20歳年上の同僚たちに囲まれながら、バリバリやってました。
それでも、バリバリ実験していた大学・大学院時代の同期は殆ど、それが活かせる職や博士に進んでるわけです。体力的な問題もありますが、私にはそれが出来ませんでした。実際これはコンプレックスで、科学実験Youtuberとかを見ていると特に胸がズキっと痛むわけです。最後の最後まであり得た可能性の自分を見ているようで。近くて遠いってこういうことを言うんだって。学生時代に専攻していた本職として出来たはずのことが趣味にスケールダウンしてしまったことに対して、正直いうと後悔しています

ただ、大学時代の専門を職にした場合、地方の工場に飛ばされる運命が待ってました。かたや、システムエンジニアなら、今や場所が問われないような時代です。なんだかんだ正解のルートを選んだのかもしれませんが、幼いころからの科学・化学好きが一切活かされていない現状は、正直心苦しいです。クローゼットに掛かっている白衣を見る度に感傷的な気分になります。

システムエンジニアの気質はいつから?

じゃあ今のシステムエンジニアが大学でポッと湧いて出たエイリアン的な夢かというとそうでもないんですよね。上では書きませんでしたが、実は中学時代にガラケーアプリを開発しようとしたことがあったんですね。

東日本大震災があって、あんな意味の分からない地震が怖いなと思い、地震学者を目指すきっかけになったと共に、当時使っていたキッズケータイでも緊急地震速報を受信したくて。お母さんのパソコンを事実上奪い取り、eclipseを入れるんです。でも環境構築でミスり、ググり方も分からず、うやむやになったんですね。
それでも地震速報を何とか手に入れたいと思い、奪ったお母さんのパソコンを24時間365日起動させて、強震モニタをデスク横のモニタで表示させたりと。こう見ると情報系の気は当時からあったんだなぁと思います。実際高校2,3年の時は見様見真似で作ったVBScriptとタスクスケジューラを使った目覚まし時計で、好きな曲で起きてました。

そう考えると、当時から二足の草鞋を履いていたことになるんでしょうが、小中高大とアイデンティティであり続けた科学および化学を本職とできなかったことの心理的ダメージは大きいんだと思います。大学時代は同じ学科内に友達が少なかったので分かりませんが、少なくとも高校までは"化学=私"と、理系クラスの同級生ほぼ全員だけでなく先生までもが認めてくれるような、そんな感じでした*3。だからこそコンプレックスとなっているんだと思います。

結局は自分の頑張り次第

私の友人に、「お前の専門は何なんだ」って突っ込みたくなるくらい多芸な友人がいます。その人を見れば、やりたいことに忠実に突き進んでることに気づくんですよね。なので、夢をいくつも叶えるって不可能じゃないっぽいんですよね。
人間って何かと理由を付けてサボり、過去を嘆くじゃないですか。私はその典型になっているんじゃないかと気づかされます。たとえば本を開いた時の著者遍歴に、いくつもの学士とかを取ってる人とかって見るじゃないですか。理想形はあれですよね。やっぱり、夢をいくつも叶えるって可能みたいです。

話の着地点も無く自分の過去を振り返ってみましたが、こう思うと未練しかありません。こんなところで死んでなんかいられません
吹雪の中6km歩いたり50km自転車漕いだりと、旅先で過酷な行程をする短期的な体力はあっても、それを日常的にする体力が無いため現状の私ではいくつも学士を取るみたいなことは多分無理です。それでも、今まで知り得た幅広い無駄知識が日常生活に彩を与えていることは疑いの無い事実。肩書は無理でも自分が満足できればいいって思いこめば吹っ切れてきたかも。
妥協をしながらでもいい着地点を見つけて数多の未練を転化出来たらなぁ~と思う今日この頃です。

それでは。

*1:PWMとかでDC99Vくらいを得る方法教えてください。あとLEDチップを並列接続したときに電流が均等に流れるようにする方法を教えてください。

*2:これを見てた中学時代にいじめてきた連中は、態度を180°変えて私のことを崇めるようになりました。大学受験を直前にすると、学力が最強の武器になるということを知りました。単純すぎる人間の愚かさを知った、いい社会勉強でした。

*3:文系クラスの人間からも何故か認知されてたようで、なんでそんなに知れ渡ってるんだろうと不気味なくらいだったんですが、どうやら定期試験結果の掲示で化学の所に載ってたかららしいんです。知らなかった。プライバシーの欠片もないやん。