相生あおはの書庫

ねこにうもれたい。

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芸術と思考

こんにちは、相生あおはです。
昼に仮眠したら寝れなくなったので、前から思ってたことを書きます。

ざっくりいうと、芸術と思考って最も人間らしく、文化的な行為だな~~って言うことを書きます。
ちなみに「水槽に浮かべた脳が云々」みたいな話が出てきます。苦手な方は開かないでください。

~~もくじ~~

経緯

肉体に縛られているのが疲れてきたからです。って書くとヤバいと思われるので補足します。

私、体力が無いくせに旅先で過酷なことやったり無理して創作しようとして身体を壊します。では体力つけろ運動しろとなりますが、その時間があれば創作をしたいのでどうしようもない状態です。

健康維持できる程度には持って行く必要がありますが、私がやりたいこと全てを達成するのは無理と悟りました。この身体が嫌だな~みたいな感じです。でもどうしようもありません。そんなことからふと考え始めました。

感情を考える

例えば、食が嫌いな私でも美味しい物を食べたら美味しいと感じます。そこでふと、その現象はどのくらいプリミティブか?と考えました。


美味しい物、何でもいいです、稚内で食べたウニ丼でも何でもいいです、それを食べた時のことを考えます。

視覚

まず机の上に置かれたウニ丼を目で見ます。

うにだけうに丼

まず、ウニ丼から反射された光が網膜上で結像します。そして網膜上にある錐体細胞により結像したウニ丼の映像が電気信号に変換されます。
そして、電気信号に変換されたウニ丼の映像は視神経を通り視覚野に到達します。ここで初めて我々は「ウニ丼が目の前に置かれた」と認識します。
そして過去の経験から、これは美味しそうという感情が生まれ、ジュワリ…となるわけです。

味覚

箸によって口の中にウニ丼が運ばれます。舌の上にある味蕾によってウニの味が電気信号に変換され、それが脳に到達することで美味しいと認識します。

その他嗅覚もあるでしょうけども、長くなるので割愛。

さて感情とは何か?

上で書いた通り、結構な現象が理論上は電気信号で再現できることが分かります。理論上は、脳に電極をぶっ刺して、ウニ丼を食べた時に流れた信号パターンと同じ波形を流すことで同じ感情が生まれ得ることになります

食に関する出来事ですら、極端な話舌すら要らないことが分かります。

ウニ丼からちょっと広げて、五感で感じ取れる身近な現象を対象として考えてみます。


例えば、ただ生命活動を送るという意味では四肢は不要です。さらに臓器も人工的な装置に置き換えることが理論上は可能です。

もっと過激に考えれば、反射を必要としなければ脊髄も恐らく不要になりますし、臓器そのものも不要になります。
脳死を人の死と定義するなら、脳が生きていれば生きているということになり、脳の機能を維持できていればいいということになります。

こうなると、水槽に浮かべた脳というのはあながち間違えではなく、脳に適切な濃度で適切な化学物質を送り込めば生命維持は可能ですし、存在していた臓器からの信号は電極で再現が可能です。あくまで理論上ですが。
脳死が人の死と定義されていれば、こんな状況でも脳の機能が維持できているはずですから感情も存在している可能性が高いです生命倫理が許さないからできませんが、同じような実験を行い、脳波が検出されたらそれは感情があると言ってもいいのではないでしょうか。

こう考えると、感情そのものって結構プリミティブなものなのではないか?と思えてきます

そんな状態で人は幸せかという話

水槽に浮かべた脳はディストピアの典型例として引き合いに出されてネタ扱いされています。確かに傍から見たら肉体を全て奪われ臓器も全て失っているので明らかに幸せではありません。
しかし本人が幸せであればいいので、本人が幸せになり得るかを考えます。
幸せとは何かという精神的な話ではなく、ここではホルモンが重要だということを書きます

オキシトシンは幸せホルモンと呼ばれるほどですし、ハイになっている時はアドレナリンが分泌されていると聞きます。精神疾患の患者さんの意識変容を促す薬品だって、いろんな方法で適したホルモンの分泌を促すものも多いです。結局はホルモンに帰着します。

嬉しいことがあれば幸せだとも考えたくなりますが、それは偶然、嬉しいことがあったらそれに対応した適切なホルモンが分泌されるように進化を遂げただけです。正確に言うならそうでない個体が淘汰されただけですけども。


つまり、先ほどの水槽にオキシトシンを飽和させるだけ溶かせば、浮かべられた脳の中に存在する人格?感情?は幸せでい続けられるはず、となります


と、ここで私の知識のボロが出ます。果たして脳をオキシトシンで漬ければ本当に幸せか?ということです。要はオキシトシンが脳に直接作用しなければ意味がありません
オキシトシン視床下部から分泌されるそうですが、脳そのものを幸せな状態にさせるならオキシトシン分泌行為すら要らなくなる可能性があります。分泌は幸せになった結果の現象に過ぎないということです。
ただちょっと調べたところ、脳内の神経伝達物質として使われているそうなのであながち間違えではなさそうです。よかった。

五感の先へ

先で述べた通り、五感は全て電気信号ですので、理論上は脳に電極をぶっ刺せば再現できます。幸せという感情もホルモンで解決できます。

が、何かを見聞きして感動したり、物事を考えるといった行為はどうでしょうか。
この二つだけは、全て脳の中で完結しているのではないかというのが私の今の考えです。つまり電極と化学物質だけではどうすることも出来なそうだということです

ここで、あなたが好きな曲を聞いた時に感動して幸せになる、という現象を分解してみます。


水槽に浮かべられた脳になったあなたは、生前?好きと宣言していた曲が聴神経を通った時に生じた電気信号を再現した電気信号を、脳にぶっ刺された電極から流されたとします。
するとあなたは、好きな曲を聴いた状態になります。そこからは感動・幸せになるという現象が全て脳内で完結します。他の臓器が無くても、外部から追加で刺激を与えずにそこまで完了できる可能性があります。

これって結構すごいことだと思っていて、五感を通じて認知したものに対して思考が発生して感情が生まれるという現象は、脳内の神経伝達を制御しない限り再現できないということです。つまり、何かに感動する、考えるという行為は滅茶滅茶プリミティブな現象ということです

娯楽は無くても生活には困らない、が

ゲームや芸術、学問って、正直無くても生活には困りません。ちなみに私は、大学院なんて行かなくても生活することは充分可能ということを社会人になってから知りました。
毎日最低限食べて寝るだけで充分、という価値観は当然存在するでしょうが、水槽に浮かべた脳になってしまうと何も起こらない状態となります。

何が良いか悪いかでは無いんですが、こう考えると娯楽って最も生きた現象なのではないでしょうか

おわりに

脳科学完全エアプで、学生時代に学んだことを元に完全妄想で書いてきました。多分最新の研究からしたら誤ってることもあるでしょう。が、私が本稿で言いたかったことは芸術と思考こそ人間らしい活動であるということです。
そして奇しくも私自身、作曲が趣味の音屋であり、身の回りにも芸術活動(プログラミングを必要とする開発を含む)に明け暮れる人ばかりです。すっごく、生きてるって感じがして楽しくなってきます。


ちなみに私がこういう若干危険な系統のこと書きたくなる時って大抵寝れない時なので、私の根幹の価値観ってここら辺なのでは?という気がしてきて最近怖いです。



それでは